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京の街中を歩くと、そこかしこの商店から、祇園囃子のBGMが聴こえてくる季節になりました。
(今年の山1番 芦刈山♪)
風に乗って流れてきたコンチキチン♪が、私を記憶の中に誘います。
我が家の娘は7月生まれ。(今日ではありませんが^^:)祇園祭の季節に生まれました。
今のように、たやすくマクロビ情報を手に入れることが、出来なかった時代。
病弱な自分の身体をナントカしたいと願い、たくさんの人との出会いを経て、導かれるようにマクロを知り、
学びました。
まだ陽性よりの調理法が主流だった時代です。
我が家は、夫も私も陰性よりの体質・病だったので、陽性に傾ける食養生で、健康を回復できたのでした。
といっても、現れていた症状が消失してからのほうが、陰陽をどう用いるのか、より学びが必要だったりします。
そんな中で、陽に振りすぎたがために、猛然と陰を求めたり、その結果、緩みすぎて体調を崩し、また陽に戻したり、そういうやじろべえのようにバランスをとり、試行錯誤をしながら生活してきました。
そして、子宝に恵まれる事。
それはマクロビオティックをはじめる時の大きな動機の1つでした。
独身時代には、婦人科の病を治す為にホルモン補充療法を6年ほど続けて、改善しないためこの療法を受けるのをやめました。
結婚する前後数年間、漢方も処方してもらい、飲み続けていたけれど、まだまだ病を治すには不十分。
健康食品も今ひとつ。
そんな事をしながら、やっと出会えたマクロビオティック。
その当時は、食べ物で体が治せるなんて!お医者さんにも行かずに!信じられん。
と思っていました。
ところがどっこい、笑。
いざ、食養生を始めてみると、おもしろいように、不快な症状が消えていきました。
薬でウイルスやばい菌を制圧するのでなく、だんだんと、そういうウイルスや菌が繁殖できにくい身体になった結果そうなっていくわけなんですが。
そんな時に、東洋医学では「上薬」という表現で普段の身体によい食事を表すことをしりました。
一時、はやったチャングムのお話中にもでてきますね。
常の食べ物や生活法の大事さ。
そうやってマクロビオティックのすばらしさを、自らの身体で、知るうちにじょじょに、子どもを迎えられる身体に変わっていきました。
ただ、まだ、身口意のバランスが取れていなかったので、願いが叶うまでにはマクロを学びはじめてから、5年の歳月を要したわけですが。
☆★
病弱だった私は、結婚後、すぐにマクロビオティックの食養生をある方から勧めてもらいました。それなのに、西洋医学や栄養学を盲信しすぎ、食による養生法がにわかには信じられず、食養の先生にご指導いただくまでには5年間の紆余曲折がありました。
なかなか人の言をとりいれられない頑固さは、今もかわりません。
何事も、信ずるまでには、岩に雨水が染みとおっていくように、時間がかかる人間です。
先だってのO先生のお話の中の、腸壁が柔軟ではないと、体の柔軟性にもかけ、頑固な人が多いというお話を身を持って示しているような人生です。
それでも、その岩をも通過したのは、自分の子どもを授かりたいという一念でした。
抗結核剤やホルモン剤、副腎皮質ステロイドの度重なる投与。数十回のX線照射。
そういうものを身体に受け入れながらも、五体満足な元気な子を授かれるようにとのぞんでいました。
コレだけやっているのに、なんで妊娠できないんだろうというじりじりした想いに何度も襲われました。
その望みをかなえるために、玄米食・健康食品や漢方、自然療法などを学び実践し、さらにマクロビオティックの食養生法をとりいれても、子宝が授かるまでに、まる10年かかったというのは、致し方ないことだったのかしらと、今は思えます。
結婚して9年がたった頃には、もはや、私には授かる子はいないのだと、あきらめ始めていました。そして子はいなくとも、楽しく人生を生きていけるように生きがいになる仕事につこうとしていました。
身体を動かして働き、良質な食べ物を摂取し、毎日仲間と談笑する。
そんな日々を送るようになりました。
囚われない心となった時に、こうのとりは舞い降りたのでした。
にわかには信じられない出来事で、周りの人から、あなたは妊娠していると告げられても、
「わたしの辞書に妊娠という文字はない!」と嘯いておりました、苦笑。
妊娠してからは、高齢出産になる事と病気の既往歴の関係もあり、大事をとって仕事をやめて、自宅でゆっくりしていました。
のんびりとした時間が流れていきました。
新しい命が、体の中で日に日に育っていく不思議さと幸せを味わっていました。
親孝行っていうけれど、この子は、今このとき、この妊娠期間に私にいっぱいの幸せをくれている。なんて親孝行な子なんだろうと思えました。
妊娠初期は、食べづわりとでもいうのか、おなかがすくと少しむかむかしました。
動物性のものや刺激物はにおいをかぐのも嫌で、ひたすら玄米御飯にごま塩を振って食べていました。
おかげで、娘は今も大の玄米御飯党です。
おなかにいる事がわかってからは、毎日のように語りかけ、散歩の時間には、眉間のチャクラに集中し、あたかもテレパシーでも送るように、娘の眉間に意識を向けながら、季節の美しい花々や青空の見たままを送り続けました。
夜には童話や童謡をおなかの子に向かって話したりうたったりして聞かせました。
そうやっていると、不思議な事に、おなかの子の心の機微が感ぜられるような気がしてきました。
喜んでるとか驚いているとか、なんだかそういう事がわかるような気がしました。
そして、おなかにいるのは、紛れもなく心を持った私たちの子だとまた、幸せにひたるのでした。
妊娠7ヶ月の頃には、子どもの聴力が発達してくるといわれています。
男の人の低音の声は、おなかに唇を押し当てて、羊水を通して振動として伝えやすいのだと育児本でしりました。
それで、夫にその話をしました。
夫は早速トライ!
私にはこども(胎児)が羊水の振動(夫のおなかの皮に響かせている声)に聞き耳を立てているのがなんとなくわかりました。しばし、様子を見ていると、胎児がそろそろと動き出し、夫がおなかに唇を押し当てている場所に近づいていきました。
そして、小さな小さな手で、おなかの内側から夫の唇を撫ぜ始めました。
胎児にとったら、私の脊椎を通して響いてくるわたしの声とはまた違う存在を知りそれを調べにきたのでしょうか。
夫も唇を触る小さな手の感触がわかったようでした。
気の早い親子の一家団欒が始まりました。
他の育児本では胎児の時期は静かに過ごさせてあげるものとなっているのを、後でしりました。
そんな事とは、つゆ知らず、私たち夫婦は、まだ姿の見えないわが子と、毎夜交流していたのでした。
☆★
寒い季節を5ヶ月、穏やかな季節を3ヶ月暑い季節を1ヶ月、胎内で過ごして娘は生まれてきました。
この年の冬は、何度か積雪があって寒い寒い冬でした。体が温まるお料理をたんと戴きました。
それで芯にぐっと陽性をもった子です。
こうと自分で決めたら、納得できるまで動かない子です。
へな猪口な母は、しばしば根負けします^^:
妊娠期間中、動物性への欲求はほとんどなくて、今とかわらない食生活を送っていました。
植物性中心の食生活で慈しんできた子。それで植物のようなたおやかさも併せ持っているような気がします。
(親ばか、汗)
妊娠生活も終盤に差し掛かった頃、買い物中、それまで欲しくはなかった、握り寿司が無性に食べたくなりました。
腎臓系がウィークポイントでちょっとお年(^^:)の私は、刺激物はずっと避けてたのですが、
この時は、欲求に負けて、食べてしまいました。
するとその晩から、足がどーんと浮腫み始めました。
これはまずいと翌朝、病院へ。お医者さんにこっぴどく叱られて、これ以上、浮腫みがひどくなるようなら、胎児は出産可能な大きさに育っているので陣痛促進剤を使うこともやむなしと言われ、しおしおと帰路につきました。
実は私自身が陣痛促進剤を使って産み落とされた子どもなのです。記憶のどこか隅っこで、もう少し胎内に残っていたかったという気持ちの一片があります。同じ思いを子どもにさせるのか・・・・。
夜、夫にその話をしました。すると夫はいつものような調子で、おなかに唇を押し当てて胎児に話し始めたのです。
「もう、出てきていいよ。出ておいで。」と。
すると・・・出産予定日より3週間早くはありましたが、翌早朝、破水があり。
陣痛が始まってしまいました。
娘が、わたしたちの願いを受け入れて、出ることを決意してくれたかのようでした。
産気づいて後、娘は元気にうまれでてきてくれました。
出産時間は8時間ほど、安産でした。
産まれてすぐに初乳をすわせ、その後、ほんのひと時、娘を傍らに寝かせてもらいました。
その時、おなかの中にいる時に、いつも歌っていた童謡を歌ってやりました。
そして、「生まれて来てくれてありがとう」と言葉がけをしました。
娘は目を見開いてこちらをじっと見つめていました。
口元が緩んで微笑みすら浮かんでいるようにみえました。
ああ、わかってくれた。母となった喜びとひとりの子どもを育て上げる事への責任感がずしりと肩にかかりました。
そして、同じ思いで、慈しんでくれた母への感謝も沸きあがってきました。
出産後1週間の入院の後、1ヶ月間の里帰り。
上げ膳据え膳で母に甘えっぱなし。
動物性はあまり食べないので献立に困っていましたが、それでも野菜を中心に大豆製品が入ったおかず。
お味噌汁や白身のお魚など用意してくれました。
最初は出るのか心配だった母乳も過不足なく出るようになりました。
ある時、娘がどうしても母乳を飲まない日がありました。
飲まそうとするとぷんと顔をそむけるのです。
おかしいなと思って、母乳を一滴なめてみると、もの凄くなまぐさいのです。
そういえばその日、4~5時間前にうなぎの蒲焼を食べていたのでした。
母乳はいってみれば白い血液。摂取した食べ物が影響してもおかしくはありません。それから、甘いものを食べた後や水分を取りすぎた後に母乳の味を確認しました。甘いものを食べると砂糖水のように甘い母乳がで、水分を取りすぎるとうす~いしゃばしゃばの母乳が出ました。「自分は食べたものになる」という言葉を実感しました。
生後6ヶ月目辺りから、じょじょに離乳食を入れ始めました。玄米クリームや乳粉をといてふつふつ煮たもの。
この乳粉にソイヤラックをブレンドしたりもしました。
お出かけの時は便利なのでソイヤラックの缶だけを携帯しましたが、これは失敗。ソイヤラック、しかも温めていないものだけではとても陰性になるんですね。単独で少しの間、飲ませ続けると、娘の足がじっとり冷たく湿っていました。
これは冷えるとわかったので、やめて玄米クリームから玄米粥と移行し、植物性のおかず。豆を煮つぶしたものや白身のお魚のつぶしたもの。を食べさせるようになっていきました。
その時には東城先生の離乳食の本を拝見しながらお料理していました。
娘は固太りでいつもニコニコご機嫌さん。すごく活動的で疲れ知らず、お昼寝もあまりしない子でした。
そんな娘との楽しい生活も今年で13年になります。
かぞえ年の13歳になる年に虚空蔵菩薩さんへお参りする十三参りへ行き、お知恵を授けていただきました。
13歳になる彼女は、少しづつ親の手を離れ、その分、友だち同士で手をむすんで、新たな道を切り拓きつつあります。
ちょっぴりさびいしいけれど、頼もしくて楽しみな事がぐ~んと大きい。
ひょろりと伸びて、母とさほど変わらない背丈となった娘の背中を見つめながら、がんばれの声には出さない声援を送るとしましょう。
幼子を抱き、産院の窓越しに聞いたコンチキチンが、心に響く季節です。
ながながと書いてしまいました。
ここまで我慢強くお付き合いくださいました皆様、ありがとうございました。
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